愛
コミケ期間中にひしひしと感じたことを。
コミケ参加者は愛にあふれている。
参加した方はご存じだろうが、コミックマーケットでは
「店」「客」「運営」のように分かれてはいない。
サークルとして出展する「サークル参加者」
企業として出展する「企業参加者」
利益そっちのけで運転していく「スタッフ」
そして、「一般参加者」
企業参加者はコミケの本質からは少々正鵠を失しているので
ここではあまり深く考えないことに。
「サークル参加者」
\7,500で長机半分、イス2脚。
基本的に黒字にはならない同人誌を作成し頒布する。
その原稿を描くという作業の時点ですでに愛が感じられるが
「作品への思いをペンに込め本を作り、同志に読んでもらいたい」
この姿勢が、もはや愛の結晶ではないか。
「一般参加者」
カタログ購入は任意だが強く推奨。\2,200。
素人が描いた本を買うために数時間列に並ぶことも厭わない。
まさに愛のなせる業ではないか。
「スタッフ」
夏は高温多湿、冬は厳寒な環境で、聞き分けのない参加者に声を張り上げる。
10〜20万という大量の参加者をトラブル無く扱う。
高給な仕事ではないと聞くから、これもコミケに対する愛のなせる業なのだろう。
さて、サークル参加者であり一般参加者である「俺」はどうなのだろうか。
評論・情報(106)で参加しているが、そこに愛はない。
サークルチケットが手にはいるから、という小学生でも理解できるほどの現金さだ。
小数部ながら、非常に凝った装丁でなおかつ内容の詰まった本を
ひっそりと頒布しているサークルを目にすると良心の呵責に似た胸の苦しさに苛まれる。
二日目の待機列だったか。
ふと、その苦しさが「呵責」でなく「嫉妬」であることに気づく。
そう、俺には「愛」がないのだ。「愛せない」のかもしれないし、
「愛を表現できない」のかもしれない。
そのことに嫉妬しているのではないかと。
ある作品を愛する。
絵心のある人なら、その愛を絵に描くかもしれない。
筆の立つ人なら、その愛を小説にしたためるかもしれない。
音楽として、グッズとしてその思いを昇華する人もあるだろう。
愛を形にできることに、どうも俺は嫉妬しているようだ。
たしかに、プログラマやネットワークエンジニアといった、
俺の目指している方向はそういった愛の具現化とはほど遠い。
i386を愛するあまりLinuxを作ってしまった、なんていうのは
フィンランドの凄腕プログラマならまだしも、向上心の足りない
田舎の高専生にはどだい無理な話である。
プログラムかけるなら同人ゲームを作ればいいじゃない、と言う人もいるかもしれない。
そりゃ、「同人ゲームのプログラムを作る」という作業で昇華できるならば結構だろう。
ただ、残念ながら「描けない、書けない、弾けない」プログラマは
昇華する術を持たないのが悲しい現実である。
「あのゲームが好きだ!だから作中に出てくるミニゲームを作る!!」
と言って、そのミニゲームを作ったとしよう。
だが、彼は気がつくのだ。
"あのゲームが好き"というのはどこか一箇所を切り出して満足されるものではないと。
絵、シナリオ、キャラクター、BGM。
キャラクターだけがお気に入りならば、それは
「あのゲームが好き」ではなく「あのキャラクター(達)が好き」なのだ。
絵が描けないなら絵を描いて絵を描けるようになればいいじゃない
文が書けないなら文を書いて文を書けるようになればいいじゃない
ご高説ごもっとも。返す言葉もございません。
ですが、その原動力が「愛」なのが問題なんです。
だから「俺は愛することができるのだろうか」と悩むんです。
愛っていったい何なんでしょうね。
俺には何ができるんだろう。何をしたら良いんだろう。
俺っていったい何なんだろう。
次の眠れない夜のテーマになりそうです。
長文読んでくれた人乙。
何かコメントもらえると喜びます。
こういった問題(?)では多角的な意見が欲しいので。
投稿者 Zawa : 2005年08月17日 01:08
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コメント
やや肩赤ですが。
人にみせるだけが愛じゃないさ。
楽しみ方は十人十色。
自分の心の中だけの自己満足で良いじゃない?
授業中机に書いたキャラの落書きだったり、ふと思いついたたわいもない想像(妄想)だったり。
そうやってその対象に思いを巡らす、それって「愛してる」って事でしょ。
それを表立って主張するかどうかの差だと思う。
出不精でコミケにも行かず、たまに同人ショップで衝動買いして、「いやぁ、自分って業界に貢献してるなぁ」とか思ってる私みたいなやつもいるわけでwww
投稿者 ぱぴ☆よん : 2005年08月21日 10:44